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平政の守山教会ニュース
森のうた(2002~2003年)

カトリック守山教会


■ No.21 2003年11・12月

ステファニ神父の死を思い

 2002年の9,10月号「森のうた」の『献堂記念日』を読み返しています。そこに引用した旧約聖書コレヘトの言葉を共に読み、ステファニの為に祈りたいたいと思います。

 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時。植えられたものを抜く時・・・。人が苦労して見たところで何になろう。わたしは神が人の子らにお与えになった努めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(3章1~11節)

 10月7日(火)、教区事務所でステファニ神父の死を聞きました。そのときは皆さんと同じように驚き、「え?」、「本当?」、「まちがいでは」と音にならない言葉が出てきました。「神様の御旨と人の思い」とは中々かさならないものだと思いました。しかし……。慰めは、記憶は記念日に昇華しますと、「森のうた」に書きました。「10月6日」が記憶に残りますように。

 今年も守山教会の保護の聖人であるルカの祝日の前、12日守山教会の献堂を記念して祝いました。この日過去をふりかえり、未来に思いをはせ、今日という日を迎えたことに感謝します。10月聖ルカを思い起こすとき、ステファニ神父の顔も出てきますように。



■ No.20 2003年9・10月

無原罪の聖母

 「アダムとエバ」の話。神様はエデンというところにオアシス(園)を造られました。さて問題です。アダムはこの園の中で造られたのでしょうか。

 日本語訳聖書でアダムという固有名詞がはじめて出てくるのは同じ個所ではありません。それだけ色々な難しい解釈があるのでしょう。創世記5章1節ではすべての訳が「アダム」になっています。1章から4章までの「アダム」という言葉は「アダム」、「人間」、「人」、「男」、と訳されています。

 次の問題、神様は園の中に「命の木」と「善悪の知識の木」を生えさせられました。さて、どちらの木の実を食べたら「必ず死んでしまう」と言われたのでしょうか。ついでですが神様が食べてはいけないと言われたのは「アダム」にでした。エバはまだ存在していませんでした。

 また問題、二人は木の実を食べましたがその時点でエバは「エバ」と言う名前を持っていたでしょうか。マリア様のことを「無原罪の聖母」といいますが、これがヒントです。

 「黙示録」12章2節「この女はみごもっており」4節「この竜は、、、子どもが生まれたら、それを食いつくすため、、」ここではエバへの「誘惑」が女に対する「殺意」になりました。神様は何とかしたいと思いましたが、幸いにマリア様の「はい」がありました。



■ No.19 2003年7・8月

野の花

 街路樹の植えられた地面を囲む四角い枡の中は、前の家人にとって格好の花壇になっている、そんな風に見受けられる所があちらこちらにあります。そして今そこには、梅雨空のしたアジサイの花房が色々の紫色を愉しませてくれています。

 中日新聞の「中日春秋」に面白い事が書いてありました。「日本人に日本を象徴する色は何ですか、と聞くと赤と紫が必ず上位にあげられるそうだ。」と。アジサイの紫は緑白色、淡い青色、そして、、多彩な紫色を見せてくれますが、最後はナス色の紫、あるいは藍色で終わります。

 キリスト教世界では、イエスの山上の説教に出てくる「野の花」が有名です。この花は「百合の花」と見なされていて、不惑、従順、清さをあらわし、聖母マリア様を象徴するものとされてきました。また百合の花を右手に持ったヨゼフ様像もあります。が一方この「野の花」は「アネモス」という説もあります。別名「風の花」。それは風の吹く場所で咲き、その風に吹き消されてしまうほど儚いからだそうです。しかし、新約聖書の山上の説教では「栄華をきわめたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」とイエスは言われています。

 紫陽花は別名「七変化」。「春夏秋冬」を梅雨の間に見せてくれます。梅雨の晴れ間のアジサイは輝いて見えますが、これもはかなく、移ろいゆく花故の事でしょうか。「野の花」に自分をかさね、「紫陽花」に人生の歩みをかさね黙想します。



■ No.18 2003年5・6月

総会に出席

 早いものでもう1年過ぎました。毎年4月29日に「カトリック名古屋教区宣教司牧評議会」の総会が開かれます。信徒会長の柴田さんと連れ立って出席しました。午前中が総会、午後が研修会などになります。各小教区から司祭一名と信徒会長が出席する事になっています。それと各委員会、公認団体、ブロック代表からも出席されますから、定員は100名以上になります。午前中はおきまりの総会内容です。

 午後の研修会では昨年に続き「福音宣教のできる教会共同体」のテーマのもと、信徒心得手引き、小教区教会規則、組織等からの見直しがありました。また、滞日外国人の人々との関わりについても話題になりました。

 昨年の「森のうた」に総会の後の感想で「個人の信仰と共同体の信仰について考えました。」と書きました。今年もまた同じです。

 大きいところから名古屋教区共同体、小さいところで守山教会共同体。個人の信仰を支えてくれるのが共同体の信仰だと思います。キリシタンたちが信仰を子孫に伝える事が出来たのはそこに共同体があったからだと言われています。

 「みよ、兄弟がむつみあってともにあるのは
 何とうるわしく、何とこころよいこと。」 (詩篇133)



■ No.17 2003年3・4月号

ことば

 神学生時代、先輩の神学生に聞いた言葉を今思い起こしています。それは「言葉はもろ刃の剣だよ」と言われたことでした。そして続けて「だから話す時は相手に言葉をプレゼントとして贈るという気持ちで会話をしないとネ。」 この先輩の言葉は妙に頭に残り、現在になっても何かの折りにふと浮かんできます。

 人の口から一度出た言葉は生き物のように駆け回ります。ことわざに「人の噂も七十五日」とあり、期限付きですが言葉の広がりをそんな風に表現しています。動き回る言葉は変幻自在です。ある時にはよく切れる剣にもなります。そしてその剣となった言葉は自分に向かってきます。プレゼントとして話した言葉も不完全な人間の言葉ですから、たびたび剣になります。

 神様の言葉「わが口から出る言葉も、むなしく私に帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送ったことを果たす。」 [イザヤ55章11節]のように話せるよう、恵みを願いたいと思います。



■ No.16 2003年1・2月号

新年おめでとうございます

 皆様、新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 教会の暦においては新しい一歩、クリスマスをお祝いして、今年も幼子救い主キリスト様を頂き、聖書におけるキリスト様の生き方にならって、大きく成長したいと心に決めたところです。いろいろな出来事を通して語りかけて下さる神様の声に心を開きたいと思います。

 2002年から2003年に移り、また新しい一年を積み重ねます。このことはクリスマスの思いをもう一度顧み、再度神の恵みと慈しみを願わずにはいられないことでもあると思います。新しい日々が来ます。どんな日々になるか、私たちには分かりません。しかし、”偶然”はあり得ないという私たちの信仰が、神様の恵みを確実にしてくれます。新しく迎える日々に希望を持って漕ぎ出しましょう。

「常に喜べ。絶えず祈れ。どんなことにも感謝せよ。キリスト・イエズスにおいて神があなたたちに求められることはそれである。」 (テサロニケ人への第一の手紙 5章15節 バルバロ訳)



■ No.15 2002年11・12月号

お月さま

 自動車通勤になって気になることがもうひとつあります。それはお月さまです。特に満月の月が。今月は何日か、天気は晴れかな等々。10月は21日(月)でした。この日の満月はとても印象深く残っています。午後6時近く司教館へ行く途中、国道41号線を左折すると正面前方東の夜空にライトアップされた布池教会の2つの塔が浮かび上がって見えてきますが、その日はいつもの見慣れた夜景ではなく、塔の電飾された最上部の直ぐ横に大きくそして黄色く輝いている満月が見えてきました。左折して直ぐでしたが車を止めたい衝動にかられました。この日は守山教会に到着するまでほぼ正面にこの満月を見ながら車を走らせることが出来ました。良かった。因みに、11月、12月は20日が満月の日です。

 心を空っぽにして満月を見上げるのもいい黙想になります。



■ No.14 2002年9・10月号

献堂記念日

何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺すとき、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。

人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、
また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで
見極めることは許されていない。
(旧約聖書 コヘレトの言葉3:1~11)


 今年も福音書史家聖ルカの祝日(10月18日)がめぐって来る。そして守山教会もひとつの年をとる。この日過去をふりかえり、未来を思う。永遠という時の流れのひとこまである。

 日本のカレンダーにはなんと記念日が多いことだろう。今日の話題に関連づければ6月10日の「時の記念日」。この日の制定は大正9年である。この制定の根拠付けもおもしろい。

 記念日を定めるということはどういう事だろうかと考えてしまった。詳細についてはいろいろ議論があるが、教父神学の学びの中で、「人間の記憶は信仰へと変わっていく」と聞いたことがある。大切な記憶はなおさら特別のものとして意識されていくことになる。そして記念日へと昇華され、時の流れの中のひとこまとなる。そういう事かなぁと思った。



■ No.13 2002年7・8月号

街路樹

 サッカー・ワールドカップで賑った6月も、ブラジルがドイツに勝って5度目の優勝を果たし終わりました。にわかファンになりTVや新聞が気になった月でもありました。

 最近、僕は「通学」という言葉にまつわる三十何年か前のことをたびたび思い起させられています。バスに乗り遅れたこと、ストライキの時にテクテク歩いたことなど。しかも思い出されるのはどちらかというと不愉快なことが多いのです。そんなことを思い巡らすようになったのは、今僕が「通勤」するという生活リズムになったからだと思います。

 園児の送迎バスを運転するようになってから、街路樹のその成長と子供たちの育ちが重なって、そしてまた季節の変化がそれに加わって弾みを付け、時の移りを目の前のそんな事柄で意識するようになりました。瀬戸線高架下の桜並木が花盛りの時は新入園児の泣き声を聞きながら運転し、秋のナンキンハゼの剪定時期には疲れて寝る子、反対に大声でおしゃべりしている子を後ろに見ながら運転します。

 通勤する道路は今まで何度かは通った道ですが、これからは街路樹が見せてくれる変化に目を向け、毎日の樂しい「通勤」道路に変えていきたいと思います。



■ No.12 2002年5・6月号

三月、四月に思う

 3月、4月は当り前のことですが、年度の終わりと年度の始まり。随分前ですが、学校の年度の始まりを9月にしたらとの議論があり、それと関係があったのか知りませんが、大学の前期試験もレポート提出も7月に変わったことを覚えています。「8、9月が休みになるのでまあ、がんばるか」との思いで7月を過ごしました。

 毎朝6時30分に4階の御聖堂の前に立ち、ちょっとの間周りの景色を愉しんでいます。そして思いました。「年度初めには、やはり4月がふさわしい」と。3月はこの時間、まだ暗い中に葉のない枯れたような枝がぼんやりと見えるだけでした。日数が経って御聖堂の正面に太陽が昇ってくることを知りました。この時季、4月になると、もう周りの木々は新芽の淡い緑の葉を春風に揺らされて、これからの新しい一年を愉しもうと言っているようです。

 4月29日に宣教司牧評議会があり、会長の○○さんと出席してきました。研修会のテーマは「福音宣教ができる共同体教会」で、印象に残ったのは "個人の信仰" と "共同体の信仰" という言葉です。教会の庭の花水木もつつじも花を落とし、本格的に命を燃やしています。"共同体の信仰" という言葉が妙に絡まってきました。



■ No.11 2002年3・4月号

はじめまして

 主税町教会から転任してきました平田政信です。よろしくお願いいたします。これを書いている今日は、もうこの守山教会に来てひと月以上になりました。日曜日のミサも1月13日から6回終わりました。守山教会に来ても主税町の聖母幼稚園の仕事は続けることになりました。そのため毎朝のミサを6時30分から行い、それが終わり次第出かけています。この生活のリズムに慣れて来たこの頃です。

 守山教会に来てから、雪が2回降りました。その朝外の景色を見て「本当にここは名古屋市内か?」と思いました。真っ白な世界が目の前にあり、木々の枝には風に流された雪が片側だけに積もっていました。しかし2,3分も車を走らせるとどこにでも見られる市街地の景色に戻りました。守山教会を囲む雑木林は、どこか高原の別荘地を想像させてくれます。今は冬ですが、春に、そして夏にと季節の変化に伴っていろいろな景色を愉しませてくれるだろうと今から心待ちにしています。



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